月別: 2018年5月

ウサギとカメの競争が国土縦断レースだったら

ウサギとカメのお話。

ウサギとカメがかけっこで競争しようということになって、ぶっちぎりで圧勝確定だったウサギさんがゴール目前で居眠りこいてカメさんに負けるっていう、あの話。

たとえカメのようなスットロい奴でもコツコツやれば大丈夫だよ。ウサギにも負けない。コツコツ大事。スットロいお前もコツコツ頑張れ。っていう上から目線のアドバイスが下る時に引用されることが多い寓話だね。

勉強の時は先生が、仕事の時は上司が使うとしっくりくるね。

トロい奴同士で「俺らも『ウサギとカメ』みたいに最後は勝つんだぁ」とか励まし合うシチュエーションなんてありえないよね。何くっちゃべってんのもうそれカメさん失格だから。カメ道踏み外してるから。

ウサギさんがゴール目前で眠る謎は「調子こいたバカ」の一点で片付けられるこの寓話。
実は真の教訓があったことに気付きました。

まずかけっこレースの規模について重大な誤解をしていたことが判明しました。
体育の時間で片が付く程度、せいぜい1キロくらいの競争を想像していたんだけど己の想像力の乏しさ、スケールの小ささに気づいて愕然としましたよね。

その重大な欠点を見事に克服し改めてスケールのデカい想像を試みたところこのレース、国土規模でしたね完全に。日本だったら縦断で考えないと真理にたどり着くことは不可能でした。

レースの規模がデカいとどうなるのか?

ウサギもカメも、ちょっと頭狂ってくるよね。

数ヶ月単位でゴールに向かって、ひたすら走り続ける。
どのルートが走りやすいか? 栄養補給や休息はどこで行う? 現状の把握や危険の予測、体調の管理、メンタルダメージ軽減、ゴールにたどり着くための最善策の模索を常に繰り返しながら可能な限り前進していく。
数ヶ月単位だぜ? ノーミスでいけるはずは無いよな。時々選択を誤ったり、不測の事態で大幅なロスが生まれることも起ころう。

こうなるとウサギの方がカメより足が速いとか、もう関係無いんだよね。
ウサギのディフェンス能力ゴミだもの。季節によっては夜地べたで寝たら死ぬよね。たぶんカメも死ぬけど。あとウサギはあれだから。うまいから。見つかると基本食われるよね。

カメはカメでかなり地形選ぶよね。なるべく踏みならされた、なだらかな道を選ばなきゃならない。キツイよね。人目につくところを歩いてたら悪ガキどもにいじめられるしカメって。海沿いの漁師町とかじゃないと助けてもらえないよね。
あとカメはあれだから。滋養に富むから。見つかると基本食われるよね。

もうそういう状況だとそれぞれの個性の長所と短所をうまく状況に合わせながらどうにかしていくしかないからね。個性というか、本性みたいなものが出るよね。やっぱりカメさんは着実に進むだろうし、ウサギさんはマメな休息を多くとるでしょう。というか取らざるを得ないでしょう。あとあいつ性欲ハンパないらしいからそういう『休憩』も頻繁に挟んでるはずだわ。

そんな過酷な日々を毎日送ってたらね、ちょっと頭おかしくなってくるに決まってるんですよ。
「え、これなんか意味あんのかな?」「もう別にどっちが速いとかどうでもよくね?」
から始まって、「意味とか別にいっか」「この草食えるのかな?」になっていって、最終的に「太陽って、すげーよなぁ。太陽。」とかひとりで言い出すようになってる。

めちゃくちゃ気分がハイになってどこまでも飛んでいけるような気持ちになったり、「今日めっちゃ晴れてたのに1キロしか進んでないわ…」ってものすごく落ち込む日も、それを取り戻そうと空回ってフテ寝する日も何度も経験する。

ズルしてなんとかならんかなって何度も考えるけど結局シンプルに進むのが一番心が落ち着く、なんていう発見も、何故か何度もしたりする。

それを見たことも無いゴールまで。

そんな長距離レースの日々の先。
ゴールが見える場所まで辿り着いたウサギさんはどう思うか?

「なんか寂しくない?」

コレですよ。

自分の持って生まれた個性をいかに有利に使って状況を切り開いていくか、こんなに思考を巡らせて行動に移して失敗も成功も試行錯誤の連続で埋もれさせてきたこの長い期間。

「俺、めちゃくちゃ輝いてたんじゃね?」

「終わるの?」

次、何で輝けるの? また充実した日々は始まるの? え、でもあの苦痛はナシでこの気分だけ味わいたい。無理だけど。無理だけど苦痛ナシの充実感が欲しい!

ゴールしたら、終わっちゃう。
あとたった数メートルでこの「俺頑張った!俺最高!」みたいな快感が消えて、新しいそれを得る必要条件『ショットガン持った猟師、マジしつこい』をやり過ごしていかなきゃならないなんて!

……。

まだ終わりたくない。

そうだ、カメ来るまでこのいい感じの気持ちをココでキープしといて、ギリギリまで幸せな気分で最後にカメに勝って終わればいいんだ。
そうだよ、今ゴールしたらカメが来るまでの時間分、損してるわ俺。ギリギリまでココで眠ろう。最後の方テンション上がってて全然休んでなかったし。むしろ必然。必然的居眠り。眠ろう! おやすみ!

コレですよ。

カメさんもね、全部わかってたんですよ。
ゴールのすぐ手前でウサギさんが眠ってることを。
勝ち負けよりも大切な何かをお互い掴み取った連体感も心地よく、
しばらくウサギさんの寝顔を優しい微笑みで眺めて、

「まぁ、勝つんですけどね。」

つってゴールテープの向こう側から石投げてウサギ起こすワケです。

ウサギさんキョトンです。

よって、このお話の教訓は「なんか寂しくない?」です。

以上となります。

タワーマンションのおっさんと六畳間のおっさんの隔たりを超越した普遍的ピュアネス

木目に濃い色の3点を見出して「笑った人の顔だ」とか。

雲の形から動物を想起したり。

眼鏡を外して部屋まで歩いてると、まさかと二度見して足元の小さな影だったと気付いたり。

曖昧な情報、「影だ」と認識する直前の一瞬だとか。

「木目だ」とか「雲だ」とわかりきってるけど、ふと意識が緩んだ時に滑り込んでくる「そこにあるはずの無い何か、もしくは誰か」

と結びつける、知覚の歪みというか、いわゆる『連想』のファーストステップ的な何か。

脳なのかハートなのか、原因となる場所はよくわからないけど、
その時の発想は、なかなかに人懐こいというか、寂しがりというか、時々怖がりだったりもして妙な感慨を覚えたり。

これが壁のシミを眺めていて「おお、札束が舞うように見える」だとか「豊満な女体の秘部のようだ」とかばかり頭に浮かんで連想の起点としていたとしたら、それは何の意外性も無く「性だな」の一言で済む話だけど、『幽霊の正体見たり枯れ尾花』と昔から言うように、ああいう時に頭に浮かぶのは、いくらか人としてはピュアな想像なのではなかろうかと思う。

そしてそれは結構案外普遍的なもので、タワーマンションの上の方で何やら高い洋酒を飲んでるおっさんと、地方都市の外れの六畳間で発泡酒を飲んでるおっさんの隔たりをも超越した共通点として、さらにはおっさんを超えて皆に通じると思わしめるに至るピュアな感覚なのです。

この「曖昧な情報に馴染みの何かを投影するピュアネス」の恩恵を、サウンドを作る人間は特に多分に受けているのではなかろうか、と思った次第です。
鳥の鳴き声が聞こえたら「鳥がいるな」だけど、
鳥の鳴き声のようだけど、ちょっと違う音だった場合、それは未知なテクノロジー計器の音として受け入れられたり、恐怖を象徴するテクスチャーとして扱われたりする。

映像や前後の文脈に集中している時、音に対しては意識が緩む時に特にそれは顕著で「ピュイーン」とか「チュイーン」みたいな人工的で抽象的な音が、ヒューマニティ的な、なんというか体温の通った感動的な情景の象徴になってしまう、みたいな可能性があるわけです。

効果音に限った話ではなくて、静かに鳴り始めた弦の重奏でいきなり晴れた空と乾いた空気がぶつかってきてこれまでの苦労が報われた主人公の気持ちがわかっちゃったような気分になって危うく泣きそうになったりする。『October Sky』危なかったもの。

作曲家やサウンドデザイナーたちは人が持つ『人々の隔たりを超越した普遍的ピュアネス』の力を借りてその流れを少し彼方に向けたり、此方に向けたり、といった具合に力を発揮しているのでしょう。
サウンドに限った話ではないけれど、一級、一流の人たちは、それをたくさんの人の中で実現して「ここに連れて来たいな」という場所まで、様々な技巧と勘でその作品に触れる人を招こうと本気を出す。「全米が泣いた!」とか言うしな。全米泣かすのは本当に大変なことだろうな。
言ってみれば、共通点をあまり持たない隔たった人々を、元来のピュアネスで繋げてしまっているというわけなのです。
素晴らしい映画をみた後は、それをみたの人の顔も見てみたい。劇場ならそういうのも見られるね。

タワーマンションのおっさんと六畳間のおっさん、秀逸な一曲。
この3点を見出して「笑った人の顔だ」とか。