日別: 2018年5月7日

タワーマンションのおっさんと六畳間のおっさんの隔たりを超越した普遍的ピュアネス

木目に濃い色の3点を見出して「笑った人の顔だ」とか。

雲の形から動物を想起したり。

眼鏡を外して部屋まで歩いてると、まさかと二度見して足元の小さな影だったと気付いたり。

曖昧な情報、「影だ」と認識する直前の一瞬だとか。

「木目だ」とか「雲だ」とわかりきってるけど、ふと意識が緩んだ時に滑り込んでくる「そこにあるはずの無い何か、もしくは誰か」

と結びつける、知覚の歪みというか、いわゆる『連想』のファーストステップ的な何か。

脳なのかハートなのか、原因となる場所はよくわからないけど、
その時の発想は、なかなかに人懐こいというか、寂しがりというか、時々怖がりだったりもして妙な感慨を覚えたり。

これが壁のシミを眺めていて「おお、札束が舞うように見える」だとか「豊満な女体の秘部のようだ」とかばかり頭に浮かんで連想の起点としていたとしたら、それは何の意外性も無く「性だな」の一言で済む話だけど、『幽霊の正体見たり枯れ尾花』と昔から言うように、ああいう時に頭に浮かぶのは、いくらか人としてはピュアな想像なのではなかろうかと思う。

そしてそれは結構案外普遍的なもので、タワーマンションの上の方で何やら高い洋酒を飲んでるおっさんと、地方都市の外れの六畳間で発泡酒を飲んでるおっさんの隔たりをも超越した共通点として、さらにはおっさんを超えて皆に通じると思わしめるに至るピュアな感覚なのです。

この「曖昧な情報に馴染みの何かを投影するピュアネス」の恩恵を、サウンドを作る人間は特に多分に受けているのではなかろうか、と思った次第です。
鳥の鳴き声が聞こえたら「鳥がいるな」だけど、
鳥の鳴き声のようだけど、ちょっと違う音だった場合、それは未知なテクノロジー計器の音として受け入れられたり、恐怖を象徴するテクスチャーとして扱われたりする。

映像や前後の文脈に集中している時、音に対しては意識が緩む時に特にそれは顕著で「ピュイーン」とか「チュイーン」みたいな人工的で抽象的な音が、ヒューマニティ的な、なんというか体温の通った感動的な情景の象徴になってしまう、みたいな可能性があるわけです。

効果音に限った話ではなくて、静かに鳴り始めた弦の重奏でいきなり晴れた空と乾いた空気がぶつかってきてこれまでの苦労が報われた主人公の気持ちがわかっちゃったような気分になって危うく泣きそうになったりする。『October Sky』危なかったもの。

作曲家やサウンドデザイナーたちは人が持つ『人々の隔たりを超越した普遍的ピュアネス』の力を借りてその流れを少し彼方に向けたり、此方に向けたり、といった具合に力を発揮しているのでしょう。
サウンドに限った話ではないけれど、一級、一流の人たちは、それをたくさんの人の中で実現して「ここに連れて来たいな」という場所まで、様々な技巧と勘でその作品に触れる人を招こうと本気を出す。「全米が泣いた!」とか言うしな。全米泣かすのは本当に大変なことだろうな。
言ってみれば、共通点をあまり持たない隔たった人々を、元来のピュアネスで繋げてしまっているというわけなのです。
素晴らしい映画をみた後は、それをみたの人の顔も見てみたい。劇場ならそういうのも見られるね。

タワーマンションのおっさんと六畳間のおっさん、秀逸な一曲。
この3点を見出して「笑った人の顔だ」とか。