作者別: 入間川 幸成

音楽屋。

音楽で生活のクオリティを考える。

音楽で生活のクオリティを考える。

というタイトルなんだけど、
「音楽は生活水準をグッと高めて豊かな人生に役立つ!」
という、音楽を嗜好する者が喜ぶもしくは喜ばそうとするお話ではないんだ。

モーツァルトが胎児に素晴らしい能力を授けるとか、
歌詞の無いBGMが作業効率を上げるとか、
ピアノを習わせると東大に進学できるとか、そういう話じゃあないんだ。

「ヘヴィ・メタルは−
(中略)そのうち効くようになる」けどな。

生活というものを音楽で考えてみる、というお話。
「生活のリズムが乱れる」だとか言うではありませんか。
そういう話を転がしてみようとしているんだ。

リズムときたら音楽の三要素のひとつだね。
あとの二つは。
メロディとハーモニー。

生活のメロディ。

生活のハーモニー。

ピンとこないね。

生活全体を楽曲と見立てると。
楽曲で鳴る音は日々の生活の中の『アクション』とか『行動』に相当するとしましょう。

先の、
「生活のリズムが乱れる」で実際に乱れてるのは、きっと『起床』と『就寝』というアクションが一定の間隔ではない、ということだろうからね。

メロディは、主旋律。
主たる行動ひとつひとつの連なりを、経過した時間で捉えた流れになるかな。
朝起きて、よそ行きの服を出して、シャワーを浴びて、靴紐を結んで、バスに乗って、君に会いにいく。
メロディだね。次の展開が気になるね。

ハーモニーは、複数の音の響きの組み合わせ。
上の「おでかけのメロディ」で言ったら、日焼け止めを塗るとか、靴墨を伸ばすとか、行きがけにケーキを買うとか、そういう伴奏される『アクション』だ。

全ての音はリズムを持っている。
メロディとして扱われる音にもハーモニーとして扱われる音にも。
だから乱れると楽曲が崩壊する。
ここで鳴ってほしい音が5秒後に鳴り出したら困る。

ただ、リズムが乱れるのは良くないこととされるけど、
乱れることそのものに意図があるならOKだ。

「あえて、一本早いバスに乗る!」

という確固たる意志を持って乱れを作ればそれはもはや『展開』と呼ばれましょう。
逸る彼の気持ちを反映した非常に良いフレーズだと思いますね。
乱したリズムの分、他の『音』との兼ね合いで調和させる必要があるので、
目的地付近で「今か今かとその時を待つ」という余白に新しい音が加わりハーモニーとなることでしょう。

では、意図しないリズムの乱れは? 寝坊?
それは楽曲における『ミス』だね。

ミスタッチがあったらあったで、そっちでもつじつまを合わせなきゃならない。
実際には自分のアクションだけではなく、他者の持つ無数のアクションに、自分の音が影響されているわけだからね。
バスに乗る選択をとったら、バスのリズムに合わせなきゃならない。
自然のリズムだってある。雨が降ったら傘をさすアクションをとるかもしれない。
機嫌の悪い誰かに絡まれることだって、起こらないとは言えないよな。

大事なのは、自分の音に意思があるかどうかってことだよね。
「つじつまを合わせなきゃならない」
「なんとなくこうなった」
っていう、意思を欠いた『音』だけで満たされた曲は、きっとだいたい同じようなものになる。

もちろん、意図しない良い結果を生むこともある。
「つくろうと思ったのと全然違うけど、これはこれでアリ!」

って、そういうラッキー。ある。あるよ。嬉しいよな。

でもそれって、意思ある『音』を積み重ねた結果、降ってくる幸運だしな。「つくろうと思った」って言ってるし。意思ありき。
それに、作っていくのは「おでかけのメロディ」だけじゃあないんだ。
「言い訳のポルカ」だって「失恋のワルツ」だって作っていくだろうし、
数え切れないほどの曲が一生の中で作られていくことになる。
全てをなんとなくでやり過ごして、たまに降る幸運を待つのかと。全曲?

先の展開に思いを馳せてそこに「俺は! 今日は! 酒を飲む!」という意思ある『音』を入れることで、自分にとって大事な一曲になるわけだ。
鳴り出しも展開も、どこかできいたようなつくりだったとしてもだ。
もうなんなら理想の展開を過去の偉業から引っ張ってきてそれぶちこもう。そうしよう。
いったんベタに走ろう。スローモーションでカメラになめられてる感覚で全力疾走しよう。恋の曲はそうやってエンディングに向かうあの展開、やっちまおう。

納得の『音』を叩き込んで、意図しないミスタッチやノイズには自分なりの工夫や展開で心地よい響きを保ったり、もう逆に「ここはあえてカオスにせしめる我が思い切り!」と意思をもってがむしゃらに暴れたって面白いじゃあないか。

周りの『音』の都合上なんとなく、によってできた曲は、たぶん思い返しても

「これは、誰の曲なんだろうな。」

って寂しげにつぶやくようなものになるだろうからな。

それは、どこかで聞いた素晴らしい曲と比べたらしらばっくれたくなるくらいのものなのか、
または本当に誰のものなのかわからないような、印象も特徴ももたらしてくれない、行為の集合体なだけなのか、とにかくどこかで聞いた素晴らしい曲とは遠いんだ。

本当は、もっと良い曲なはずなんだ、って思ってしまうような。

「今の自分が作った、いかにも自分らしい。」
とちょっと悔しそうだけど、でもニヤリとするような楽曲。

誰でも過去にはあるよね。自分がつくったそういう楽曲。
「思い出」と呼びますね。

生活の音に意思をぶちこむんだ。

そのアクションに、意思はあるか?

私は、あえて寝る!

鈴の音自体は秋らしいのに、曲に入ると冬っぽくなる。

外から大量の鈴が鳴る音がずーっと、ずーっときこえてくる。

硬い飯をガリガリ噛む音よりも大量の鈴の音が気になる。

鈴という楽器は、鈴虫の鳴き声をモデリングしたんじゃないのかしら。そっくり。
外に鈴を持った人がたくさんたくさん並んで絶えず腕を振り続けてるんじゃないか。
カーテンを開けても姿は見えない。
ずーっと、鈴の音がきこえる。

人類の、鈴という楽器の発明によって以後、夏とか、冬にこの季節の空気とか匂いとかが恋しくなったらいつでも秋の音に触れることができる恩恵を享受できるわけなんだけど。

鈴の音って、楽器として使うとなんかサンタクロース来そうな感じがするんだよね。
不思議だわ。
楽器としての形状のせいかしらね。手にすると振らずにはいられないものな。シャンシャンと上下に。
それでリズムとったらもう来ちゃうよね。白い毛に覆われたおっさんが。
不思議だわ。

アクセントで入れるとなんか夏っぽいし。

無秩序かつ大量に鈴を鳴らし続けたらたら秋っぽくなるんだろうけど、それはもはや環境音楽というか、環境音だ。

大量の鈴の音がずーっときこえて続けてる。

ギターは魚。

音楽をきくと、色が見えたり味がしたりっていう、
聴覚で触れる音楽が別の感覚器官、視覚とか触覚とか、そういう刺激を受け取る『共感覚』っていうアレ。

過去に「音楽を聴くと色が見えるんです。」っていう人の話を聞いた覚えがある。
どういう音楽がどういう色になるとか、視界を覆うのか色のイメージが頭に浮かぶだけなのか、細かい話を尋ねた覚えがあるんだけどそこは全く記憶にない。

今振り返って思うのは、車の運転しながら音楽聴いたら大変じゃないのかしら、っていう路上の疑問。

ドライブに影響を及ぼすほどでないにしろ、
「硬い音」とか「甘いメロディ」とか、別の感覚を言葉にして伝えることはあるから、
音から想起する別種の感覚っていうのは誰にでもありましょう。

音を出す物は身の回りにたくさんあるし、楽器だけに限ってもかなりの種類があるから、
もしも音に味があったらどんなもんなんだろう? とふと思うに至り。

腹が減っていたのかね。

もしも音に味があったらどんなもんなんだろう?

基本的に楽器の音は、適切に演奏されたものなら味は「良い」に違いない。
人が触れて心地よくなるように設計されて、心地よく鳴るように培われた技術を注いで出てくる音だから。

まず最初に思い浮かんだのは、金管楽器のタンパク質感。
うまい。そして滋養に富む。
ホルンなんかラム肉みたいな甘い香りの脂を含んでカロリー、すなわち熱量を与える高エネルギーな味がする。
他の音の中でも埋もれない存在感はやはり味覚界主役級の肉っぽさで表されるべき。
存在感で言ったらトランペットなんかはさらにその上を行くからあれかなぁ、やっぱり牛肉かな。
どんな付け合わせでもやっぱり主役級のポテンシャルだからね。

シンバルとか、金物系もうまそうだよね。
こちらも存在感高めだけどそれ単体というよりやはり組み合わせで威力を発揮することが多い金物だから、
スパイスだな。うん、刺激と香りのうまさだ。シンバルは胡椒っぽいな。

ギターはどうだろうな。これは種類が多くて好き嫌いが分かれそうな繊細な味を持ってそうだな。魚みたい。
サンタナのギターの音は、きっと火を通すと旨い。
ヴァンヘイレンは生でも全然いけちゃう。
加工によって調味料になったり、カラスミ的な保存食になったりして全然様変わりする広さと深さがある。ギターは魚。

なんか甘味的な音は無いかしらね。
あ、でもアンビエントとかで使われるふわーっとしたギターの音とかはうっすら甘い味しそうだよね。
ギターは魚だとするとあれか、桜デンブ。あれおいしいよね。
そうだね、柔らかくて綺麗な高音が出る楽器はなんか甘味っぽいね。
鈴の音とか甘そうだ。さっき金物はスパイスとか言ったけど鈴は甘そうだわ。前言をためらいもなく覆すわ。鈴カステラとはよく言ったもんだ本当。

そういうアレでいくとピアノが全然わからないんだよね。
ハイカロリーな存在感もあるのにパーカッションっぽい刺激も持ちつつ尚且つ甘い、みたいな。
今まで絶対幾度となく味わってきてるはずなのに「コレ」と即答できない懐かしい味、みたいなのがしそうなのよ。
そして絶対うまい、という。

なんだろね。っていうかなんだろうねこの話。
腹が減っているんだね。

ウサギとカメの競争が国土縦断レースだったら

ウサギとカメのお話。

ウサギとカメがかけっこで競争しようということになって、ぶっちぎりで圧勝確定だったウサギさんがゴール目前で居眠りこいてカメさんに負けるっていう、あの話。

たとえカメのようなスットロい奴でもコツコツやれば大丈夫だよ。ウサギにも負けない。コツコツ大事。スットロいお前もコツコツ頑張れ。っていう上から目線のアドバイスが下る時に引用されることが多い寓話だね。

勉強の時は先生が、仕事の時は上司が使うとしっくりくるね。

トロい奴同士で「俺らも『ウサギとカメ』みたいに最後は勝つんだぁ」とか励まし合うシチュエーションなんてありえないよね。何くっちゃべってんのもうそれカメさん失格だから。カメ道踏み外してるから。

ウサギさんがゴール目前で眠る謎は「調子こいたバカ」の一点で片付けられるこの寓話。
実は真の教訓があったことに気付きました。

まずかけっこレースの規模について重大な誤解をしていたことが判明しました。
体育の時間で片が付く程度、せいぜい1キロくらいの競争を想像していたんだけど己の想像力の乏しさ、スケールの小ささに気づいて愕然としましたよね。

その重大な欠点を見事に克服し改めてスケールのデカい想像を試みたところこのレース、国土規模でしたね完全に。日本だったら縦断で考えないと真理にたどり着くことは不可能でした。

レースの規模がデカいとどうなるのか?

ウサギもカメも、ちょっと頭狂ってくるよね。

数ヶ月単位でゴールに向かって、ひたすら走り続ける。
どのルートが走りやすいか? 栄養補給や休息はどこで行う? 現状の把握や危険の予測、体調の管理、メンタルダメージ軽減、ゴールにたどり着くための最善策の模索を常に繰り返しながら可能な限り前進していく。
数ヶ月単位だぜ? ノーミスでいけるはずは無いよな。時々選択を誤ったり、不測の事態で大幅なロスが生まれることも起ころう。

こうなるとウサギの方がカメより足が速いとか、もう関係無いんだよね。
ウサギのディフェンス能力ゴミだもの。季節によっては夜地べたで寝たら死ぬよね。たぶんカメも死ぬけど。あとウサギはあれだから。うまいから。見つかると基本食われるよね。

カメはカメでかなり地形選ぶよね。なるべく踏みならされた、なだらかな道を選ばなきゃならない。キツイよね。人目につくところを歩いてたら悪ガキどもにいじめられるしカメって。海沿いの漁師町とかじゃないと助けてもらえないよね。
あとカメはあれだから。滋養に富むから。見つかると基本食われるよね。

もうそういう状況だとそれぞれの個性の長所と短所をうまく状況に合わせながらどうにかしていくしかないからね。個性というか、本性みたいなものが出るよね。やっぱりカメさんは着実に進むだろうし、ウサギさんはマメな休息を多くとるでしょう。というか取らざるを得ないでしょう。あとあいつ性欲ハンパないらしいからそういう『休憩』も頻繁に挟んでるはずだわ。

そんな過酷な日々を毎日送ってたらね、ちょっと頭おかしくなってくるに決まってるんですよ。
「え、これなんか意味あんのかな?」「もう別にどっちが速いとかどうでもよくね?」
から始まって、「意味とか別にいっか」「この草食えるのかな?」になっていって、最終的に「太陽って、すげーよなぁ。太陽。」とかひとりで言い出すようになってる。

めちゃくちゃ気分がハイになってどこまでも飛んでいけるような気持ちになったり、「今日めっちゃ晴れてたのに1キロしか進んでないわ…」ってものすごく落ち込む日も、それを取り戻そうと空回ってフテ寝する日も何度も経験する。

ズルしてなんとかならんかなって何度も考えるけど結局シンプルに進むのが一番心が落ち着く、なんていう発見も、何故か何度もしたりする。

それを見たことも無いゴールまで。

そんな長距離レースの日々の先。
ゴールが見える場所まで辿り着いたウサギさんはどう思うか?

「なんか寂しくない?」

コレですよ。

自分の持って生まれた個性をいかに有利に使って状況を切り開いていくか、こんなに思考を巡らせて行動に移して失敗も成功も試行錯誤の連続で埋もれさせてきたこの長い期間。

「俺、めちゃくちゃ輝いてたんじゃね?」

「終わるの?」

次、何で輝けるの? また充実した日々は始まるの? え、でもあの苦痛はナシでこの気分だけ味わいたい。無理だけど。無理だけど苦痛ナシの充実感が欲しい!

ゴールしたら、終わっちゃう。
あとたった数メートルでこの「俺頑張った!俺最高!」みたいな快感が消えて、新しいそれを得る必要条件『ショットガン持った猟師、マジしつこい』をやり過ごしていかなきゃならないなんて!

……。

まだ終わりたくない。

そうだ、カメ来るまでこのいい感じの気持ちをココでキープしといて、ギリギリまで幸せな気分で最後にカメに勝って終わればいいんだ。
そうだよ、今ゴールしたらカメが来るまでの時間分、損してるわ俺。ギリギリまでココで眠ろう。最後の方テンション上がってて全然休んでなかったし。むしろ必然。必然的居眠り。眠ろう! おやすみ!

コレですよ。

カメさんもね、全部わかってたんですよ。
ゴールのすぐ手前でウサギさんが眠ってることを。
勝ち負けよりも大切な何かをお互い掴み取った連体感も心地よく、
しばらくウサギさんの寝顔を優しい微笑みで眺めて、

「まぁ、勝つんですけどね。」

つってゴールテープの向こう側から石投げてウサギ起こすワケです。

ウサギさんキョトンです。

よって、このお話の教訓は「なんか寂しくない?」です。

以上となります。

タワーマンションのおっさんと六畳間のおっさんの隔たりを超越した普遍的ピュアネス

木目に濃い色の3点を見出して「笑った人の顔だ」とか。

雲の形から動物を想起したり。

眼鏡を外して部屋まで歩いてると、まさかと二度見して足元の小さな影だったと気付いたり。

曖昧な情報、「影だ」と認識する直前の一瞬だとか。

「木目だ」とか「雲だ」とわかりきってるけど、ふと意識が緩んだ時に滑り込んでくる「そこにあるはずの無い何か、もしくは誰か」

と結びつける、知覚の歪みというか、いわゆる『連想』のファーストステップ的な何か。

脳なのかハートなのか、原因となる場所はよくわからないけど、
その時の発想は、なかなかに人懐こいというか、寂しがりというか、時々怖がりだったりもして妙な感慨を覚えたり。

これが壁のシミを眺めていて「おお、札束が舞うように見える」だとか「豊満な女体の秘部のようだ」とかばかり頭に浮かんで連想の起点としていたとしたら、それは何の意外性も無く「性だな」の一言で済む話だけど、『幽霊の正体見たり枯れ尾花』と昔から言うように、ああいう時に頭に浮かぶのは、いくらか人としてはピュアな想像なのではなかろうかと思う。

そしてそれは結構案外普遍的なもので、タワーマンションの上の方で何やら高い洋酒を飲んでるおっさんと、地方都市の外れの六畳間で発泡酒を飲んでるおっさんの隔たりをも超越した共通点として、さらにはおっさんを超えて皆に通じると思わしめるに至るピュアな感覚なのです。

この「曖昧な情報に馴染みの何かを投影するピュアネス」の恩恵を、サウンドを作る人間は特に多分に受けているのではなかろうか、と思った次第です。
鳥の鳴き声が聞こえたら「鳥がいるな」だけど、
鳥の鳴き声のようだけど、ちょっと違う音だった場合、それは未知なテクノロジー計器の音として受け入れられたり、恐怖を象徴するテクスチャーとして扱われたりする。

映像や前後の文脈に集中している時、音に対しては意識が緩む時に特にそれは顕著で「ピュイーン」とか「チュイーン」みたいな人工的で抽象的な音が、ヒューマニティ的な、なんというか体温の通った感動的な情景の象徴になってしまう、みたいな可能性があるわけです。

効果音に限った話ではなくて、静かに鳴り始めた弦の重奏でいきなり晴れた空と乾いた空気がぶつかってきてこれまでの苦労が報われた主人公の気持ちがわかっちゃったような気分になって危うく泣きそうになったりする。『October Sky』危なかったもの。

作曲家やサウンドデザイナーたちは人が持つ『人々の隔たりを超越した普遍的ピュアネス』の力を借りてその流れを少し彼方に向けたり、此方に向けたり、といった具合に力を発揮しているのでしょう。
サウンドに限った話ではないけれど、一級、一流の人たちは、それをたくさんの人の中で実現して「ここに連れて来たいな」という場所まで、様々な技巧と勘でその作品に触れる人を招こうと本気を出す。「全米が泣いた!」とか言うしな。全米泣かすのは本当に大変なことだろうな。
言ってみれば、共通点をあまり持たない隔たった人々を、元来のピュアネスで繋げてしまっているというわけなのです。
素晴らしい映画をみた後は、それをみたの人の顔も見てみたい。劇場ならそういうのも見られるね。

タワーマンションのおっさんと六畳間のおっさん、秀逸な一曲。
この3点を見出して「笑った人の顔だ」とか。