カテゴリー: 雑記

仕事だから、で切り離すのが自分の甘えとかじゃなくて近しい誰かだったら。

『仕事』という言葉を使うのに少し気をつかうようになった。
言葉自体は結構好き。

「この領分に」って決めた場所に注げるだけのエナジーを持ち寄る強い意志を伴った行動、みたいな感じ。
小説『木を植えた男』のイメージ。
森ひとつ再生させるくらいの偉業の可能性を持つようなのが『仕事』には含まれてる。ような気がする。

ただ、この仕事という言葉を耳にする日常で少しずつイメージが変わってきた。
結果、あまり乱発できなくなった。
あと単純に無職だったことが多かったのも原因。『仕事』に敏感になったんだ。
「あと」とかサブっぽく言ったけど正直に白状するとむしろこっちが主な要因だ。

遠ざかるほどに鮮明に意識にのぼるもの、それが『仕事』だ。
『仕事』の持つまぶしさは持たざるものの羨望の眼差しにこそ通るようです。

教壇の上で知識を授けるのも仕事だし、
性的に倒錯したおっさんの股間を蹴り上げるのも仕事だ。

行為はなんであれ、受け手とか報酬とか、そういう条件が揃ってたらそれはもう仕事だ。
だから森ひとつ再生させるくらいの意気込みで『仕事』する、そんな男に私はなりたい。
先生は生徒に学問の道案内をしてほしいし、嬢は今夜も全力で蹴り上げていてほしい。

ただ日常的に「仕事」と口にした瞬間に『木を植えた男』感とは違う何かが漂う。

「ごんめー!その日仕事だ。ごんめー!」

みたいな時の『仕事』

この『仕事』には土を掘り両手で苗を包み天候を見守るような熱心さよりも、
自分を誰かを切り離す道具のような安直さを感じるんだ。
仕事を理由にデート断られた男の恨み言のようだろうそうだろう。

「仕事だから」と言われれば引き下がるしかないみたいな破壊力。
仕事が理由であれば、仕事以外の出来事の遅刻やドタキャン、棚上げやフェードアウトもなんか仕方ないかなみたいな雰囲気がある。将軍家の家紋入り印籠みたいだな『仕事』。

逆に、それだけ『仕事』というのは人の為す行為の中で重視すべき尊いものであるということです。
両手で包み込んだ苗です。やがて森になる大事なやつ。

それだけ威力を持ってるから便利に「ごんめー!」って軽く使ってしまった時の「こっち側には入ってこないでね」と切り捨てるようなナイフ感。あれさみしいよな。
「パパはお仕事だから。」が最初のナイフ体験だった人は多いんじゃないかしら。でもきっとパパやママは両手で苗を支えるイメージの『仕事』で使ってたと思うぜ。そういうことにしとこうぜ。

「仕事と私、どっちが大事なのよ!?」

っていうあのお決まりのセリフも。彼女は仕事そのものよりも、『仕事』っていう切れ味の良い道具に文句があるんだろうな。日頃からそれを振り回してると彼女の中では 仕事=私を切り捨てる刃物 みたいな扱いになる。
本当は苗イメージなのに。だから「どっちが大事なのよ」みたいな並べられ方をすると「今の時点の不満だけで文句言いやがってこの女」ってな具合になるよな。いつか森になって一緒に木の実を集めながら散歩とかしようって思ってるのに!って。
仕方ねぇ。刃物としてその言葉を使ってきてたんだから。

っていうようなことを考えると、『仕事』って言葉を、舌の上に乗せるのには少し躊躇してしまう。
でもひとりの時は大丈夫。だから今すごい乱発してる。ゲシュタルト崩壊。

そしてひとりの時は、刃物のイメージもとても心強い。
「仕事だ。」って自分のためにこの言葉を使うと、行く手を阻む藪やらツタやらをバッサバッサ切り落としていけるような勇まし感とか、あと「切り進めていかないとヤバい。俺ヤバい。」っていうアドベンチャー感出てくる。拓いてるぜ!未開の地!みたいな刃物イメージからの、苗!

いつか森になる『仕事』を。

でもデート断る時は「仕事で」って言ってほしい。嘘でもいいから。

間違いなく君は病んでる。『メンヘラ』に無くて『五月病』にあるもの。

『五月病』という言葉を近年聞かなくなった。
たぶん自分の生活リズムが、時計やカレンダーが区切るそれとはずれてるからだと思う。
でも五月だからどこかのだれかには今も変わらず五月病と呼んだら楽になるような不調が起きているような気もする。
近年聞かなくなった『五月病』の代わりにここ数年で出現頻度が高まってる同種の言葉がある。
『メンヘラ』だ。
精神的な健康状態、メンタルヘルスが悪化していてメンタルヘルスの世界に心を砕き時間を割く人を指すスラングで「メンヘラー」から変化したものだそうだ。マヨラーみたいなものだと思ってる。心のあちこちにメンタルヘルスという概念をドバドバかけ続けて過剰摂取する偏食家みたいなものだ。

「精神病患者」というとお医者さんを通ってからの名前だし、昭和の時代に狩られてしまって、今は使うと怒られるようなスラングでも少し重たいからそれらを一緒にして表せる言葉ができたことで、その人口が大幅に増加しているような印象を受ける。最近多い気がしないかい。メンヘラ。
そこに最近話題になり始めた、よくない社会現象をくっつけて語ると、あたかも現代社会の闇、というような文脈が作れる。「昨今の不況で悪化した労働条件に従事せざるを得ない若年層のメンヘラ化」とか言えばなんかそれっぽい。うん、それっぽい。何も言ってないのそれっぽい。
昔より人々は病んでいる、とか言えちゃう。
そんなわけあるか。女工哀史とか野麦峠レベルの個々人の精神衛生まで抜き出して比較してんのか。言ったもん勝ちみたいなところあるよな。俺も言おう。昔より病んでる?違うね。いつでも病んでる。
古今東西いつでも精神のダメージはあったはずだ。良いとされる環境でも、何をしてもしなくても、ダメージを受けちゃうくらい精神は意味わからんものじゃあないか。

電子機器の普及とか、細分化された機能社会だとか、大人とか子供とかもあんまり関係ない。あ、でも大人の方が生きてる時間が長い分ダメージが蓄積する時間もあるからそこは違いがでるかもしれない。

「病んでる」人々がインターネットの向こう側とかニュースの最先端とか、身近な職場なんかにいたりしてそれらをまとめて『メンヘラ』と分類できる昨今。五月なのに五月病よりメジャーな同種のボキャブラリー。病んでるのか日本。

というより、みんながみんな全員病んでると思ってる。
超健康!鋼の精神!とか思える人でさえ。というか出会う人全員が同意するくらいのポジティブな表向きなら、それはもう健康状態というよりは『演出』と呼んだ方が自然だし。そんなパーフェクトな演出を施すのは、その人、きっと俺が知らない何かを過去に見たんだよ。って思う。強い人だ。
「健全」っていう風にみえるとても薄いところから。「不健全」だと思われるとても濃いところまでのグラデーションがあって、日常生活に支障をきたす辺りに今の自分の心が染まったら「ああ、病んでる。」ということになるんだと思う。
この人は違う、というのもその時点でその人が濃淡のどの辺りか、ということでしかない。

こんなことを外で面と向かって話したら
「何を失礼な!そこらの軟弱者と一緒にするな!」
なんて怒り出すおっさんは、いないか。いないな。こんなことをおっさんに外で面と向かって話さないもんな。
でも「自分は違う!」というその区別意識を煮詰めて煮詰めてものすごく濃くしたらそれはメンタルヘルスの不調ですよきっと。社会性に影響出ますよ。その源はすでにそこにあるんだ。

でも『病んでる』状態がわかった時は、病んでるか病んでないか、白か黒か、新品か不良品か、みたいな二種類でその人を分ける。
だから自分がそういう状態に陥ったら、病んでなどいないと必死になったり。
近しい人がそうだと思うと、もう取り戻せない何か重大なものを失ってしまったような気持ちになったり。
そうでもない人は、違う世界に行ったんだと遠ざかったりする。

「病んでるあの人と病んでないこの人」っていう二種類の分け方だと、壊れてしまって取り返しのつかないようなショックを受けたり、自分は病んでるから、と大事なものを遠ざけたり、場合によっては「メンヘラなんで」をアイデンティティみたいに振りかざして何かを補おうとする心まで芽生える。それは病んでるからじゃない。別な問題だ。

みんなそれぞれ病んでるし、みんなだいたいおかしい。
むしろそのまちまちのグラデーションで突然苦しかったり突然楽しかったりするような大量の見知らぬ人間同士が集まった場所であらゆる約束事が守られて、電車が時間通りにやってきたり送った手紙が届いたり待ち合わせに君がいるのがすごいことだとすら思えてくる。

少し濃くなったな、とか。あ、薄くなってきた、よしよし、みたいな方が、感覚としておさまりが良いと思う。
あとそっちの方が他人にも自分にも優しいような気もする。
自分の中にもそれはあって、今は認識できないくらい薄くて、もしかしたら一生それはそのままなのかもしれないけど、何かのきっかけで真っ黒に染まることもあるかもしれない。あれは自分も同じだ。という何か。それと一生付き合うんだわきっと。

『五月病』はそのグラデーションを薄くしてくれる良い言葉だ。憂鬱の根拠なんてわざわざ深く考えて追求したいものでもないから、それを特定するでもなくなんとなく期間限定な感じにふわっとおおってくれる。「それは考えなくてもいいよ。」って顔を上げさせてくれるような優しさがね、『五月病』という言葉にはある。来月には大丈夫なんていう根拠はどこにもないのに、五月が終われば大丈夫、みたいな自信満々な顔してるいい加減でブレない心強さがあるよ、やつには。

グラデーションでメンタルを眺めると、自分の言葉の中にも『五月病』に相当する、誰かの何かを薄くする可能性があるような気になれる。仮に近しい人がひどく打ちのめされてしまったとしても、それは取り返しのつかないことじゃなくて、今はグラデーションのこの辺りで、あの辺りまで一緒にいこう、みたいな気になれる。
ハロー五月病。一緒にあいつをよろしく。

これまで武道館のステージを夢見て散ったバンドマンの数は、武道館のキャパにおさまりきるのだろうか。

『夢は人に語った方が良い』

という自己啓発的価値観。

これまで数多くご覧になった方もおられよう。
俺もその一人だ。

・人に伝える言葉にすることで夢が明確になる
・伝えた人が協力者となることもある
・自分の中で『逃げ』の姿勢が無くなり覚悟が決まる

などなど、そのメリットと共に語られるアレだ。

たぶんそうなんだろう。

たいていの夢の実現には他者の協力は不可欠だし、
それには言葉が必要だし、
夢と呼ぶからには覚悟を持って臨まなきゃならないくらいの大きさだろうから。

実際この教えに基づいて叶えられた夢は数限りなくあるだろうし、
その夢で幸せになった人も大勢いることだろう。

俺の生活にも影響するレベルで世の中をハッピーにしている『元・ドリーム』もあったことだろう。

だから、夢を語ろう!みんな!

というお話ではないんだ。

もっと、おっかない夢のお話をしたいんだ。

自分の中にある願い事。それらの中の、ある種の夢には、
口にした瞬間にすでに叶ってしまっているものがある。

叶ってしまっているっていうとなんかネガティブな印象だけど、
ネガティブな事だからもう一度言っちゃう。
口にした瞬間にすでに叶ってしまっているものがある。

『夢』ってもっとこう、ポジティブな文脈で出てくるワードじゃないかと思うでしょう。
そうなんだよ。夢ってポジティブなんだよ。
なんかワクワクしたり、熱くなってきたり、うぉーッ!!って叫びながら走り出したくなるようなエナジーに満ちたイイ感じの何かじゃないですか。

だから「夢は人に語った方が良い」っていうのは、
そういう夢のポジティブな面が、人にも伝わるから良いみたいな部分も大いにある。

きいてるだけでワクワクしたり、熱くなってきたり、俺も頑張ろう!っていうエナジーが湧いてきたりするから。
そういうのをプレゼントするポジティブな行い、というワケです。

だから、夢を語ろう!みんな!

というお話ではないんだ。

問題はこの「人に伝えた時に、相手にエナジーが伝わる」というところなんだ。

これ自体はとても素晴らしい。素晴らしすぎて自分の生活に毎日取り入れたい。エネルギッシュな日々。
毎日夢追う人々が我が家のドアチャイムを鳴らし夢を語りにきてほしい。三日もあれば片っ端からぶん殴れるくらいまで俺のエナジーはフルチャージされるはずだ。

夢って、語ってもらうと嬉しいよな。
心許されてる感じがする。実際俺がそうする時はそういう時だし。
それでさ、熱っぽく語る自分の話をきく相手が喜んでくれるのも嬉しいよな。
受け入れられた感じがする。

だからさ、
目の前の人を喜ばすために語る夢ってのがでてくる。

例えば警察官になりたいキッズがいたとする。
幼いなりに知ってる限られた職業とか生き方の中で身近だった警察官というものへの憧れはもちろんあるでしょう。
テレビとかの影響もあるだろうし。悪に立ち向かう大人はカッコイイ。

ただ、警察官への憧れもあったけど、そのキッズが将来の夢をきかれて答える、その『夢』を構成する要素に「警察官になりたいって言うと嬉しそうな母親」というのが結構な割合で含まれてる。

健気ないい子だ。そのうち「警察官になりたい」とでも言おうものなら逆に母親が悲しい顔をしてしまうようになるんだろうな。

夢を問われて「警察官になること」って答えたキッズの願い事は、
本当は「警察官になること」と「将来の夢を問う母親の喜ぶ顔をみること」だったわけです。
これらは分けて考える方が、俺は好きだ。
警察官を目指す幼少期は彼の糧になるはずだし、母親を喜ばせる夢も毎日叶えてきてほしい。

そういう幼少期を経て、いろんな物事を経験しつつ人生の岐路というか、外側からの進路決断の催促の時期がやってくる。
みえるものが増えたら、やりたいことは減っていたりする。

それでも残った「これぞ」という願い事を抱えてそれを叶えるべく頑張ったり、頑張らなかったりする。
疲れたタイミングで夢を語る誰かと出会う。なんか元気になる。自分もそうありたい。夢って素敵。

そんな時だ。

「俺、ぜってぇビッグになってよ。武道館。お前連れってやっからよ。」とか言っちゃったりしてないかって。
その夢、まさかベッドの上で語ってないよなって。
大切な夢、ワンナイトラブ用のペッティングの一部になってないかって思うんだ。

目の前の人を喜ばすためだけのファッション感覚、メイク感覚で語る夢。
二、三回泣いちまったら汚く崩れる程度のマスカラドリーム。

それが悪いっていう話じゃないんだ。
むしろガンガンやってこ。ペッティング。マスカラ。あ、マスカラはいいや。
目の前の人に喜んでもらいたいっていうアレは素敵だからガンガンやってこ。

問題は、混ざってないかっていうアレだ。
「俺は武道館のステージに立ちたい。」って語る自分の中に「俺はこの人が喜んだり元気になったりしてほしいんだ。」っていう願い事とか他にも俗っぽいのとか色々、
あったりするんじゃないのか。みえなくしてないか。
もちろん両立する時もある。全部同時に叶うこともある。
でも大きくなるにつれてそれは難しいから分けて考える方が俺は好き。
ストレートな欲求を覆うために『夢』を使わないような。
女の子口説く時は素直に「あんたを勇気付ける人になりたい」「…とかなんか耳障りいいこと並べてカッコつけたいけどその前に実はめっちゃ抱きたい」的なスタンスが自分の中で明確になってるような。実際言ったらキモいけど。

自分の中にある願い事。それらの中の、ある種の夢には、
口にした瞬間にすでに叶ってしまっているものがある。

隠れたもうひとつの願い事が混ざった「武道館のステージに立ちたい」は、
語られた瞬間に、実はもう叶ってしまったのかもしれない。
ビッグドリームを語る自分。語れる自分を受け入れる誰かの好意。
違う名前をつけられて、本人に意識されないままの願い事。

でも実際、武道館のステージには立ってない。抜け殻みたいな夢になる。
二、三回泣いちまったら崩れる。もしくは抱えたままウロウロして、時が経つほどに身動きがとれなくなる。

本当は武道館じゃなくても良かったんだ、って気づく時まで。

人に語ると目の前の人が勇気付けられたり、自分自身が元気になったりと素敵なことが起こるからこそ、
夢そのものがその素敵な何かで覆われてしまって、みえにくくなることがあるんじゃないか。
その願い事は、言葉通りの中身なのか。違くても後に引けなくなってるのか。
「武道館のステージに立ちます!」って夢を語って散っていったバンド達の本当の願い事は、喜んで勇気付けられた誰かがいたらもう叶ってたんじゃないか。

部屋中を覆うような、大量の作品の死骸から漂う腐臭をまとって、誰にも語らなかった怨念みたいな野望を引きずって外に出てきたような奴が、希望を根こそぎ騙し取られて、きたねぇ居酒屋で「俺、偉くなりたいよ。誰にも邪魔されないくらい偉くなりたいよ。」って泣きながら酔い潰れてるボロボロの願い事の方がよく見えたりするんじゃないか。全然キラキラしてない、でも言葉通りの中身の夢。

夢を語ると、隠れてしまうものがあって、それで苦しくなることもあるんじゃないか。
というお話。

そういうの考えると、
ファッションドリームを超えて、なんか語るのがこわいくらいに大きく思える夢が、
人の口からふと語られる瞬間というのは、やはり尊いと思うわけです。

「夢は人に語った方が良い」っていうか「人に夢を語るのは、良い」って思う。

さみしがりな違和感。

ちょっとした疑問として胸につかえているような事。
かといってそれがやる気や元気を奪っていく程に深刻でもなく、
ふとした拍子に「ああ、やっぱりおかしいよな。」ってモヤっとして、
それをまた忘れる、程度のそれ。
過剰な冗談や、それに混じる失言の勢いに任せて、
さらっとそれを外側に出すと、
「おや、君もかい。」
なんて振り向く人がいたりする。
なんの解決にもならなくても、
解決すら望んでいなくても、
それだけでなんか気分が晴れる。
「この気持ちがわかるものか」というほど深刻ではないからこそ、
共感を求めるさみしがりな小さな違和感。
運良く「君もかい。」をもらえたならそれはいいけど。
「それには賛同しかねるね。」
の可能性もあるわけで、
たったふたつの可能性でも、どちらに転ぶか、続くのか途切れるのか、たまに期待通りだったり、まれに外れたりするものだから、外側に向かうアクションの圧は次第に弱まっていくんじゃあないのかと。
疑問は口にしてみたほうが、案外晴れるものかもしれない、
というような内容を書こうとしていたのだけども、
書いているうちにそうでもないと考えを改める結果になりました。
困ったものです。

残った別の物語。

古本屋さんで買った本に、アンダーラインが引いてあると萎える。
古本はそういうのもありき、っていうのを理解していても萎える。
アンダーラインでもそうなのに、
推理小説の登場人物に丸印とか書いてあったら。
もう逆にやる気出てきて全ての登場人物にそれぞれ印つけてから売りに出すしかありません。
岩波文庫以外の文庫本は専らブックオフの108円棚で大人買いしてくる私は、
先代オーナーの名残ごと部屋に持ち込むこともままあります。
しおり代わりのレシートとか、チラシはよくありますね。
メモ書きもたまにあります。
ごく稀に手紙があります。
今日はそのレアケースにギリギリ入るであろう残留物に当たりました。
『パパへ 紅茶のパウンドケーキだよ~(笑顔っぽい絵)食べてね♪
from(女の子の名前)』
ポストイット的なメモに書かれたメッセージ。
帰りの遅い父親へ向けてキッチンテーブルの上にでも置いたかのような佇まい。
この手のフランクなメッセージカードすら、相手によっては捨てるには気がとがめるその気持ち、パパでない私にもわかりますとも。
パパはその気持ちとメッセージを、伊坂幸太郎の『バイバイ、ブラックバード』にしまって、しまったまま忘れてブックオフに売っ払ったのでしょうかね。
本を開いて、作品を読む前に愉快な気分になるのは、悪くないものです。