カテゴリー: 雑記

間違いなく君は病んでる。『メンヘラ』に無くて『五月病』にあるもの。

『五月病』という言葉を近年聞かなくなった。
たぶん自分の生活リズムが、時計やカレンダーが区切るそれとはずれてるからだと思う。
でも五月だからどこかのだれかには今も変わらず五月病と呼んだら楽になるような不調が起きているような気もする。
近年聞かなくなった『五月病』の代わりにここ数年で出現頻度が高まってる同種の言葉がある。
『メンヘラ』だ。
精神的な健康状態、メンタルヘルスが悪化していてメンタルヘルスの世界に心を砕き時間を割く人を指すスラングで「メンヘラー」から変化したものだそうだ。マヨラーみたいなものだと思ってる。心のあちこちにメンタルヘルスという概念をドバドバかけ続けて過剰摂取する偏食家みたいなものだ。

「精神病患者」というとお医者さんを通ってからの名前だし、昭和の時代に狩られてしまって、今は使うと怒られるようなスラングでも少し重たいからそれらを一緒にして表せる言葉ができたことで、その人口が大幅に増加しているような印象を受ける。最近多い気がしないかい。メンヘラ。
そこに最近話題になり始めた、よくない社会現象をくっつけて語ると、あたかも現代社会の闇、というような文脈が作れる。「昨今の不況で悪化した労働条件に従事せざるを得ない若年層のメンヘラ化」とか言えばなんかそれっぽい。うん、それっぽい。何も言ってないのそれっぽい。
昔より人々は病んでいる、とか言えちゃう。
そんなわけあるか。女工哀史とか野麦峠レベルの個々人の精神衛生まで抜き出して比較してんのか。言ったもん勝ちみたいなところあるよな。俺も言おう。昔より病んでる?違うね。いつでも病んでる。
古今東西いつでも精神のダメージはあったはずだ。良いとされる環境でも、何をしてもしなくても、ダメージを受けちゃうくらい精神は意味わからんものじゃあないか。

電子機器の普及とか、細分化された機能社会だとか、大人とか子供とかもあんまり関係ない。あ、でも大人の方が生きてる時間が長い分ダメージが蓄積する時間もあるからそこは違いがでるかもしれない。

「病んでる」人々がインターネットの向こう側とかニュースの最先端とか、身近な職場なんかにいたりしてそれらをまとめて『メンヘラ』と分類できる昨今。五月なのに五月病よりメジャーな同種のボキャブラリー。病んでるのか日本。

というより、みんながみんな全員病んでると思ってる。
超健康!鋼の精神!とか思える人でさえ。というか出会う人全員が同意するくらいのポジティブな表向きなら、それはもう健康状態というよりは『演出』と呼んだ方が自然だし。そんなパーフェクトな演出を施すのは、その人、きっと俺が知らない何かを過去に見たんだよ。って思う。強い人だ。
「健全」っていう風にみえるとても薄いところから。「不健全」だと思われるとても濃いところまでのグラデーションがあって、日常生活に支障をきたす辺りに今の自分の心が染まったら「ああ、病んでる。」ということになるんだと思う。
この人は違う、というのもその時点でその人が濃淡のどの辺りか、ということでしかない。

こんなことを外で面と向かって話したら
「何を失礼な!そこらの軟弱者と一緒にするな!」
なんて怒り出すおっさんは、いないか。いないな。こんなことをおっさんに外で面と向かって話さないもんな。
でも「自分は違う!」というその区別意識を煮詰めて煮詰めてものすごく濃くしたらそれはメンタルヘルスの不調ですよきっと。社会性に影響出ますよ。その源はすでにそこにあるんだ。

でも『病んでる』状態がわかった時は、病んでるか病んでないか、白か黒か、新品か不良品か、みたいな二種類でその人を分ける。
だから自分がそういう状態に陥ったら、病んでなどいないと必死になったり。
近しい人がそうだと思うと、もう取り戻せない何か重大なものを失ってしまったような気持ちになったり。
そうでもない人は、違う世界に行ったんだと遠ざかったりする。

「病んでるあの人と病んでないこの人」っていう二種類の分け方だと、壊れてしまって取り返しのつかないようなショックを受けたり、自分は病んでるから、と大事なものを遠ざけたり、場合によっては「メンヘラなんで」をアイデンティティみたいに振りかざして何かを補おうとする心まで芽生える。それは病んでるからじゃない。別な問題だ。

みんなそれぞれ病んでるし、みんなだいたいおかしい。
むしろそのまちまちのグラデーションで突然苦しかったり突然楽しかったりするような大量の見知らぬ人間同士が集まった場所であらゆる約束事が守られて、電車が時間通りにやってきたり送った手紙が届いたり待ち合わせに君がいるのがすごいことだとすら思えてくる。

少し濃くなったな、とか。あ、薄くなってきた、よしよし、みたいな方が、感覚としておさまりが良いと思う。
あとそっちの方が他人にも自分にも優しいような気もする。
自分の中にもそれはあって、今は認識できないくらい薄くて、もしかしたら一生それはそのままなのかもしれないけど、何かのきっかけで真っ黒に染まることもあるかもしれない。あれは自分も同じだ。という何か。それと一生付き合うんだわきっと。

『五月病』はそのグラデーションを薄くしてくれる良い言葉だ。憂鬱の根拠なんてわざわざ深く考えて追求したいものでもないから、それを特定するでもなくなんとなく期間限定な感じにふわっとおおってくれる。「それは考えなくてもいいよ。」って顔を上げさせてくれるような優しさがね、『五月病』という言葉にはある。来月には大丈夫なんていう根拠はどこにもないのに、五月が終われば大丈夫、みたいな自信満々な顔してるいい加減でブレない心強さがあるよ、やつには。

グラデーションでメンタルを眺めると、自分の言葉の中にも『五月病』に相当する、誰かの何かを薄くする可能性があるような気になれる。仮に近しい人がひどく打ちのめされてしまったとしても、それは取り返しのつかないことじゃなくて、今はグラデーションのこの辺りで、あの辺りまで一緒にいこう、みたいな気になれる。
ハロー五月病。一緒にあいつをよろしく。

DV彼氏と小学生が柔軟剤でふわふわウォーキング腰痛

腰痛緩和という情けない理由で目的地をもたず外を歩き回る。
平日昼間のベッドタウンの空気は、日光で膨張した柔軟剤の甘ったるい匂いを、年寄りが緩やかなウォーキングでかきまわしてできてる。そこらじゅうのベランダの洗濯物が識別不可能なほどに匂ってくる。夕方になればそれが夕食の匂いに変わり、夜になればシャンプーの匂いに変わるんだろう。腰が痛い。背筋と腹筋のバランスだ。衰えた筋肉を取り戻すべく、さっき運んだ右足をまた前に運ぶ。運んでも運んでも前に運ばなければならない。右も左もキリがない。ウォーキングというよりは徘徊に近い。陽光に目を細めた表情はあまり平和的じゃあないだろうと思う。健康志向の町の空気は、そんな徘徊者も柔軟に包んでくれるらしい。やつらは服も心もふわふわだ。

原チャリで来たのにわざわざ町を徘徊するという無駄な移動。『移動』ではなく『運動』が必要なのに歩けど歩けど運動らしくはならない。『移動』以外の存在を認められないような都市の空気とは違い、ふわふわタウンなら『移動』なのか『運動』なのか、はたまた『徘徊』なのか、曖昧な僕のこの苦行も柔軟に包み込んでもらえるんだと思う。
目的地を持たずに新宿を歩くなんてとても無理だ。ひとりなら確実に『移動』になる。目的地は駅一択だ。二人なら。ラブホテルだろう。

幼い頃に嫌というほど歩き慣れた道を歩いてみる。嫌というほどというか本当に嫌だった。
家から小学校までの距離はとてつもない長旅に思えたし、かつてのふわふわタウンはそこらじゅうに犬のフンが放置されていてよくウンコ踏んでた。本当に嫌だった。
今では駅のホームにガムやタバコが散乱してないし、犬のフンを踏むこともない。不審者も見当たらない。『住みよいまちづくり』というのは実現するんだ。住んでないけど。

「裏門からでたところの生垣、こんなに低かったんだ。」とかそういうベタなやつはもちろんだけど小学校からかつて住んでた家までの通学路をたどると気づくのは、あったものよりも、ないものばかりだった。
小学校の裏門から出ると線路の下をくぐる。その長さ数メートルほどの『トンネル』は、校舎の北側に位置するせいか数メートルながら暗くて、ときどき上から水滴が落ちてきたりする。上を電車が走ると堪え難い轟音がしたりして低学年の僕を大いにビビらせ、早歩きを習得するきっかけになった。

暗いのも水滴もあったけど、轟音はしなかった。
こんなに静かだったか。列車や線路の性能が上がって騒音が緩和されたのか。僕の耳の性能が当時より落ちたのか。後者は無い物と信じたいが明らかに音が小さい。暗く狭いトンネルで、列車の通過を待つ男が立ち止まっているところを児童に見られなくて本当に良かった。遅れて学校に来たがために、毎日通らなければならない通学路に無用な恐怖を与えかねないと今思い返していて気付いた。

トンネルを抜けたところには怪しげな教材セットを、勉強なんかするわけないガキをおもちゃで釣って売りつけるおっさんが設置した『申込みボックス』もなかったから雑草もいれられなかった。
鉄クズをくすねても絶対ばれない程に廃材が山盛りになったボロ屋もないし、「くめくめひろし」って書かれた情報番組っぽいへのへのもへじの落書きもない。ウンコ踏まないように下ばかり見て歩くクセがついてたはずなのに結構見てたものだと思う。特に思い入れがあったわけでも記憶に残るエピソードがあったわけでもないのに、無いとわかると「あ、ないな。」以上の何かが内側にあることに気づくらしい。辿った道には帰れない。

「知らねー奴に愛想振りまいてんじゃねぇよ」とか言ってDV彼氏が怒るのは、
初対面の彼女の笑顔の素敵さを知っているからだ。それがもう自分にはないことも。
自分が『知らない奴』から『彼氏』までの道を歩いてきた。それを一番よくわかってるから過敏に反応するんだと思う。
初対面の好印象。心配してた二回目の約束のあっけなさ。「おいおい、これいけるっしょ!?」の連続。それに伴う彼女と自分の変化。「もう一度戻ってやり直したいな。」なんて思う暇もなくいつも先の期待に向けて進んでいた二人の関係。好意的なアクションとリアクションの連鎖。
でもその道はもう辿れない。もう自分以外の誰かしかそれができないもどかしさ。
「おめぇよぉ、」と彼女に絡む時にそんな事は意識にはのぼらないし気付いてもいないけど、その事実は常に頭の中に存在している。

期待を込めて他人に向けた好意へ、予想以上の好意が帰ってくる。
感情の振れ幅の大きい何かを投げたら、感情の振れ幅の大きいと思われる何かが必ず帰ってきてた事。
そのノスタルジー感欲しさと、それが再現不可能だという事実。そもそも何が欲しいのかもわからないイライラが混じっているカオスが『知らねー奴に愛想』という光景で吹き出し繰り出す一撃。
彼女のリアクションは大きい。大きな感情の振れ幅。これか。これなのか。自分の行為に、彼女が即座に大きく応える。会話とも違う。セックスにもない。これかもしれない。もう一発。
そんな感じなんだろう。『DV』は『子供のだだっこ レベル99』とでも呼ぶものだ。叱る人はもういない。

DV彼氏はもう彼女とはじめましてはできないし、背が伸びた今はウンコくせー通学路もないし騒音は緩和されたし柔軟剤の甘ったるい匂いがするようになった。
僕は道でウンコを踏むこともない。あるのは腰痛だ。腰が痛い。

さみしがりな違和感。

ちょっとした疑問として胸につかえているような事。
かといってそれがやる気や元気を奪っていく程に深刻でもなく、
ふとした拍子に「ああ、やっぱりおかしいよな。」ってモヤっとして、
それをまた忘れる、程度のそれ。
過剰な冗談や、それに混じる失言の勢いに任せて、
さらっとそれを外側に出すと、
「おや、君もかい。」
なんて振り向く人がいたりする。
なんの解決にもならなくても、
解決すら望んでいなくても、
それだけでなんか気分が晴れる。
「この気持ちがわかるものか」というほど深刻ではないからこそ、
共感を求めるさみしがりな小さな違和感。
運良く「君もかい。」をもらえたならそれはいいけど。
「それには賛同しかねるね。」
の可能性もあるわけで、
たったふたつの可能性でも、どちらに転ぶか、続くのか途切れるのか、たまに期待通りだったり、まれに外れたりするものだから、外側に向かうアクションの圧は次第に弱まっていくんじゃあないのかと。
疑問は口にしてみたほうが、案外晴れるものかもしれない、
というような内容を書こうとしていたのだけども、
書いているうちにそうでもないと考えを改める結果になりました。
困ったものです。

残った別の物語。

古本屋さんで買った本に、アンダーラインが引いてあると萎える。
古本はそういうのもありき、っていうのを理解していても萎える。
アンダーラインでもそうなのに、
推理小説の登場人物に丸印とか書いてあったら。
もう逆にやる気出てきて全ての登場人物にそれぞれ印つけてから売りに出すしかありません。
岩波文庫以外の文庫本は専らブックオフの108円棚で大人買いしてくる私は、
先代オーナーの名残ごと部屋に持ち込むこともままあります。
しおり代わりのレシートとか、チラシはよくありますね。
メモ書きもたまにあります。
ごく稀に手紙があります。
今日はそのレアケースにギリギリ入るであろう残留物に当たりました。
『パパへ 紅茶のパウンドケーキだよ~(笑顔っぽい絵)食べてね♪
from(女の子の名前)』
ポストイット的なメモに書かれたメッセージ。
帰りの遅い父親へ向けてキッチンテーブルの上にでも置いたかのような佇まい。
この手のフランクなメッセージカードすら、相手によっては捨てるには気がとがめるその気持ち、パパでない私にもわかりますとも。
パパはその気持ちとメッセージを、伊坂幸太郎の『バイバイ、ブラックバード』にしまって、しまったまま忘れてブックオフに売っ払ったのでしょうかね。
本を開いて、作品を読む前に愉快な気分になるのは、悪くないものです。

意味など無い。

登場人物の言動や、会話で進行していく物語に突然挟まる情景描写のひとつひとつが、
どれもこれも伏線に思えてきて、
「おいおい、なんだよこれからどんだけ俺をスカッとさせたりビビっとさせたりしにくるつもりだよ…。」
なんて読み進めていくんだけど、ふんだんにあると思ってた宝箱がどれもこれも空だったどころか宝箱ですらなかったとわかるのは、読み終えた時っていう。
ストーリーの展開に特に影響を及ぼさないにしろ、人物の造形とかに関わるだろうから裏切られた気になるのもおかしいのはわかってる。
そもそも文章のひとつひとつを伏線だと思って全ての回収を期待するなんて読み方が無茶なのは当然なんだけど。
返ってくると考える方が難しい期待を抱いてページを繰る自分にちょっと残念な気持ちになる。
108円の文庫本一冊にすら。
いわんや周囲のリアリティをや。