「制作のやる気」を加速させる作品に出会うということ

映画でもゲームでも音楽でも、「良いなコレ!」って思える作品に出会えるとやる気が上がるよねって言う話。
「俺もやってやる!」って燃え上がる感じ。

でもこれが起こるのには、良い作品だけに出会えばいいのかというとちょっと違う気がする。

例えば、「良すぎる」作品に出会った場合は。
自分が作品にのめり込み過ぎてしばらく動けなくなる。
もしくは作品が自分にめり込みすぎてしばらく動けなくなる。

パッと思い浮かんだのは「人間失格」を初めて読んだ時。
ティーンエイジのちょうど良い時期も相まって読み終わった日は何もやる気が起きなかった。
「あー…すごかったなぁ。」
くらいしか言葉にならないような。

これは作品が自分にめり込みすぎた感じ。

あとパッと浮かぶのはダークソウルかな。あれも良過ぎてしばらく動けなくなった。全然ゲームの中では動いてたんだけど、のめり込み過ぎて他のことが疎かになったパターン。

制作の熱量が上がる燃料を欲してる気分の時は、
「良い」と思える作品に出会えるのが一番ハッピー。

でも、「良い」は「今の、奮い立たせてほしい自分にちょうど良い」くらいの「良い」であって、必ずしも普遍的な良い悪いには直結しない可能性もあるって言うこと。

「人間失格」は間違いなく良い作品だけど、当時「良い」を通り越して、打ちのめされた。

そして読み返したとしても、
その時の衝撃をもう一度期待してしまって「初めての時はもっとガツンときたのになぁ。」ってな具合に「期待はずれ」感が混じってしまう。

超有名なアニメ作品が、世界中のクリエイター達を触発して大量の二次創作を生み出すのは、
普遍的な「良い」と、個々人にちょうど良い「良い」がバッチリ噛み合って、制作のインスピレーションの燃焼があちこちで起こっているような気がする。

「俺もやりたい!でも、難しいだろうなぁ…」

っていう二の足を踏む感覚を消し去るくらい頭の中が「良い!やりたい!」で埋め尽くされるか、

「あれ、これ、俺にもできるんじゃね?」

っていう「舐め」が入るか。

「舐め」で言うと。
良い作品は高い技術に裏打ちされてることが多い。
そして、高い技術は、パッと見で簡単そうに見える。

スティーヴ・ヴァイはギターとしては一級、ギターとは思えない音としても一級な音が、ギターを撫でてるだけでパラパラと出てくるように見えるけれども、これをやろうと思うと必要な技術があり過ぎる。

音のみならず洗練されたあらゆる所作がまたひとつの芸として鑑賞の対象となり、「つらそう」とか「難しそう」なんて印象は与えない。

なんかできそうな感じがする。

できるかどうかはさておき。

「舐め」とは言ったものの「舐め」が入る作品はその実、舐められた代物ではないという皮肉。

でも「舐め」がなかったら一歩目が出てなかったタイミングが、結構あったような気がする。
それでいくと、「舐め」ありで「良い」作品に出会うタイミングはこちらの心構え次第なところが多分にあるので、っていうかほぼ自分の状態に依存するから。

出会う作品をちょうどよく受け取れてエネルギーに転化できる自分の状態のバランス感覚が、結局肝要だよねっていうお話で、「制作における勢いを与えてくれる作品」みたいな話をしたつもりが、「制作における勢いとは自己の精神管理なり」というありふれた結論になりましたという。