
「〇〇節」的なトレードマークみたいなものが、
自分の作る曲にもあったらいいなぁと憧れて。
「自分らしさ」をかき集めようとするじゃないですか。
ひとつかふたつ、それっぽいのが見つかったら、
今度はそれをどう活かそうか考えながら作っていく。
初級段階で持ち武器も少ない中、自らに縛りを課していくスタイル。
当然制作のスピードは鈍り、成長の機会を逸していく。
私が通った「らしさ」への憧れの道。
それでも尽きない「イトケン節」とか「久石サウンド」っていうバッジみたいなものへの憧れで。
それはもう好きな楽曲、憧れの作曲家達が持っているものを自分も持てたら、という空想が後押ししてしまうよね。
でもね、「自分らしさ」は本当にカッコイイ憧れなのか?
「イトケンさんっぽさ」はカッコイイ憧れだけど、
「入間川幸成っぽさ」は、入間川幸成から見たら、鏡に映る自分を見てる気分とさして変わらないのではないだろうか。
故に、「自分らしさ」を努めて付与しようとしてもハッピーな結果にはならない。
もう訓戒的に既にどんな分野においても言われているアレ。
「『自分らしさ』とは追い求めるものにあらず。滲み出るものなり。」
っていう話なんだけどさ。
じゃあどうやったら滲み出るのかというお話に、制作中に「お、これかも?」という瞬間が時々あったから書いてみたい。
- 「これかも?」①
量。クオンティティ。
まずは量が必要だよね。
2曲の間から見えてくる共通した雰囲気とか特徴よりも、200曲について言える共通した雰囲気とか特徴の方がみんな納得わたしも納得。
でも200曲について言える共通した特徴が見つかるためにはたぶん1000曲くらい要るんじゃないかと思ってる。
10曲並べてみて「あ、これとこれはなんか『っぽい』ぞ」みたいになるのは2曲くらいだから。
- 「これかも?」②
作業中の癖。
作業中に常に作用している癖が影響してるんじゃないかということ。
癖、練り上げて曲となり。
盛り上げるパートの後に、もっと盛り上げたくなった時に。
出番が終わった暇そうな楽器を引っ張り出してきて「はい、この人と同じことやって!君の音で!」
っていう「レイヤーで解決作戦」を私は取りがちなんだけどさ。
これは盛り上げるパートを作り上げるのに既に持ち武器もHPも尽きかけてる私と、
盛り上げるパートによる多重奏化で負荷がかかって「ギギギ…」ってなってるマシンサイドの問題があって。
新しい音色を持つ強い楽器をステージに連れてくる余裕がもう既に無い(と決め込む)背景から、そういう状況での最適解みたいなものがパターン化してくるんだよね。
最適解っていうのは、音楽的に最適解か試していく時間的・体力的な余裕が無い中での最適を探して、作業的に、楽曲的に、締め切りとか取り巻く環境的に「現状でココがベストでしょう」っていう落とし所みたいな最適解なんだけど、
そういう「最適」への落ち着き方への癖みたいなものも、音に影響してくる。
例えば、
盛り上げて、さらに盛り上げる、という選択をとる時に、最初の盛り上げパートにちょっとだけ谷を付けて2回目がより盛り上がったように感じられるような省エネ対策を取る、とかさ。
そういう、制作中の問題回避の癖。回避パターンの積み重ねっていうのは、どんな曲においてもだいたい同じになるから、全然違う曲調でも構成が似るとか、展開パターンが共通するみたいな結果に繋がる。
だから過去に作った曲を聞き返した時に、
「あ、ここで一回仕切り直した」みたいな、ちょっと後ろ向きな回避パターンが見えたりする。
制作時にもがいてなんとかしようとしながら這いつくばって逃げた軌跡みたいのがあると、「あー…『っぽい』な。」ってなるんだよね。
だから「自分らしさ」が出てくるのは、私の場合『逃げ癖』を発揮した時に出てきやすいのではなかろうかというのが最近の発見。
自分の『逃げ癖』に向き合う時が自分らしさを感じるっていうね。
結局、自分を顧みた時に、どこが気になっちゃうのかっていうチェックポイントが自分で見た「自分らしさ」なのではなかろうか。
これは気分が非常に高揚している時なんかは自分の好きな部分にフォーカスが当たって「自分らしさ」の回答が変わるのかもしれない。


コメントを残す