自分の内から湧く感情を。
『ポジティブ』『ネガティブ』の二つに分けていったとして。
『ネガティブ』の箱に入った感情で、私にとって最も好ましくないものは、と考えたら。
たぶん、『恐れ』ではなかろうか、と思うに至った。
人によって『恥』だったり『怒り』だったりするかもしれない。
こういう時の自分が嫌い、っていうやつ。
取り止めのない話が許容される相手とゆっくり話す時間がとれるようなことがあったら尋ねてみたい。
なぜ恐れなのかっていう話で、
自分が大きくやらかす時は、元を辿っていくと、何かにビビったが故に取った行動が引き起こしてるんじゃないかと思ったんだよね。他のネガティブな感情や行動の根っこみたいな。
たとえば寄せられた期待に応えられないと思うと、与えられた贈り物を取り上げられたような気がして感情に不具合が出る。
媚びたり落ち込んだりふてくされたり憤ったり。それで状況が悪化したり。
憤りで覆われてる瞬間も、嫌々ながら眺めていくと恐れを揺さぶる外部からの刺激に対して「俺がビビってる」という反応の代わりに「外部から突然不快な思いをさせられた!」という解釈で怒りとして処理する。
どっちが正解とかじゃないんだけどね。それで怒りに任せて暴れたりしなければ。怒ろうがビビろうが、反応するのは仕方ない。大事なのは気づくことだ、っていう。
「ビビってんのか?」
このフレーズ。ティーンの頃はよく効いた。
ビビってると思われることは恥で、負け、みたいな暗黙の了解。
「他の奴にはこれができまい」みたいな色々を、良いことも悪いことも含めて誇示していくわけです。
主に悪いことの比率が高くなりがちで。良心に従わない、大人が咎める、こういった行為こそハードルが高く「ビビってない」証明になると思っていました私。
ビビってると思われたくない、というビビってるが故の愚行。
これは恐れを認識できずに振り回された結果。
その少し前、ローティーンの頃。
バスケ部の顧問の恩師も、試合中に私がバグってると言ったものです。
「ゆーきーなーりー!ビビってんのか!?あぁ!??」
これで「ビビってないです。」の意思表明をしてプレイに集中しなおす。
「俺がビビってる?まさか!」
その場でできることしかできないからそれだけに集中する、という少年らしく好ましい愚直さを、先生の怒鳴り声で取り戻したのを思い出したよ。っていう。
気付くことね。
あ、今気づいたけど大人相手でも「ビビってんのか?」って結構効く煽りじゃないかな。どうかな。