理想的オカルト態度。

オカルト。

信じがたい、でも、もしかしたらあり得るかも。
みたいなお話。

この世界じゃないどこかから来た何かとか誰かとか。

私はオカルトを好む。
絶対無いとは言い切れない何かに思いを馳せるのは楽しいからね。

でもオカルトには別なイメージもある。
科学的な根拠に乏しい主張のことを「オカルト」と呼ぶことも多い。
これには困惑させられているオカルト愛好者も多いことと思う。

オカルトの良いところってさ。
不安定で不確定で、確かめるのも難しいだろうなぁ…っていう掴みどころのないところだと思うのね。

その不確定さが、大体の場合は手前の利益とか都合のために真理面して他者を食い物にする態度に利用されがちなんだよね。
特に現実につつき回されてくたびれたり傷ついたりしてる人に、現実の外側の「無いとも言い切れない話」を、耳触りの良いようにしつこく流し込んだら染み込みやすいから。
これはこの先も無くならないと思う。

こういう身勝手な態度は、科学的な雰囲気も、都合よく利用する。雰囲気だけね。用語とか使って。
科学はさ、真理とされている物事にも「マジか?」「この場合でも同じこと言える?」って、時間と労力を掛けてあらゆる方向から叩いて、それでも壊れない堅牢な論を、みんなでつくっていこうぜ、またこの先、覆るかもしれないから、これから先も。みたいな態度が前提にある。

この膨大な労力の過程をすっ飛ばして。
「これは絶対の法則なの!」って人に押し付けたり、信じたいものだけを見てそこから動こうとしない態度は、
よくない方のオカルトのイメージ。
「オカルト」と聞いたら嫌悪されるのは、きっとこっちの、楽して人を食い物にしたり、他者とか他の可能性を拒絶する方のことだと思う。
オカルトに固執する人、ヤバい奴いるもんな。
でもそれはオカルトの側面の一部、さらに言えば偽物の側面だと私は思うんだ。

先の通りの、不安定で不確定で、掴みどころのない、それでも触ろうとせずにはいられない、そういうオカルト的態度で以て、

「昨日までは真理だったかもしれないけど、明日からは違うかもね。」
「今この瞬間から、どこかで何かが変わったかもね。」
「いつか、本当に見つかる日が来るかもしれない。」

みたいな自由で、常に可変流動的で、広大なロマンの輝きを眺めるのが、私は美しいと思うんだ。
書いてて気付いたんだけど、この曖昧さこそが、好きなポイントなのかも。