終わらない自由研究。

小学生の頃に学んだことの大半は忘れちゃったけど。
夏休みの自由研究はいまだにいくつか思い出せる。

竹で笛を作ったり。
貼り絵を作って提出したり。
山に入ってキノコの写真をいくつか撮って、それらを調べて紙にまとめたり。

自分で調べたり、調べるために家族に相談したりとか、こう、前のめりで集めた情報とか経験は長い時間が経っても残りやすい。

世の中で出会うノウハウ的なものを指して
「こういうことこそ学校で教えるべき」

みたいな主張、たまにみるじゃない。ネットで。
それだけに大事だけど注目が集まってない知識、もしくは注目が集まってないと思ってる人、またはその両方がたくさんあるのであろう。

お役所関連の手続きとか、リボ払いのおそろしさとかさ。
マイノリティの実情とか、人情の機微とかな。

最近は「学校で教えるべき」とは思わなくなってきた。
思い返せば調べ方学び方は教わったからな。伝え方も。

調べたり試したり、それらが吹き飛んで、またやり直したり。
こういうトレーニングの場も与えられてきた。

その中の一つが自由研究ですよ。
大人がやっちゃいけない法は無いし、夏休みじゃなきゃならない律も無い。

自由研究だから。自由に決められる。
自分の興味が向かないものは即座に切り捨てて、好きなものを調べたり試したりしてそれを残す。
そういう遊びみたいな、学習みたいな時間が、結構自分に効く感じがするんだよね。

没頭する感覚を楽しめるし、運良く有益な新技に繋がったりもする。
でもそれを目的にしなくてもただ、気分が良くなる。
気分が良くなるのは重要だからさ。これだけでも大人には素晴らしいことだよね。
人は結構たくさんの人と関わりを持つから、機嫌良いだけで世界平和に貢献してるかもしらん。

さらに自由研究の結果をどこかに、誰かに伝えたらね、どこかで何かしらのスパークが起こったりするからな。他者の発表からのインスピレーション。それは遥かに手が届かないハイレベルのものにもあるし、隣の席の子くらいの距離感でもバチバチ起こる。むしろ同じクラスくらいの近さの方が多いかもわからん。あったよね。
自分の頑張りが誰かのためになると思える感覚っていうのも非常に気分がよろしい。少しでもマシな人間に近付けてる感覚が、フテクサレを吹き飛ばしてくれるからな。

でも、夏休みの宿題と同じで、手をつけるまでがめんどくさいんだけどな。
ただ「めんどくさい」は大抵、大事なことにつながってる。
もし仮にめんどくさいを理由に後回しにしてきたものを、ことごとく即決処理してきてたら、嫌な思いをした経験の大半が消し飛ぶんじゃないかしら。そうなったらそうなったでまた別のダメージを受けてここまできてるのかな。どうかな。

ああ、そう。自由研究。
大人がやっても良いよねっていうお話。