それは狭さか、それとも広さか。

「これは変だと思う」

「それは許せない」

みたいな物事、誰しもあると思う。

小さいのだとピザの上に乗ってるパイナップルとか、大きいのだとクジラを食する文化の是非とか。

寛容さは人としての器の大きさと同一視されることが多い。
だから、自分の外側のあれこれを「それはおかしい」って言い回ってる人は心が狭いっていう扱いを受ける。
実際ピザの上のパイナップルでワーワー言ってる人いたら黙るか去るか選べって思うしさ。

じゃあこれがクジラを食べる、とか猫を食べる、とかだとどうなんだろうっていう。
これは外野からワーワー言うのは、心の狭さなのか、視野の広さなのか決めかねるところ。

人の命が関わってくるとどうだろう。

死刑を許容しない国の人が、死刑制度のある国の人に「君たちはおかしい、野蛮だ。」って詰め寄るのは、狭さなのか広さなのか。

倫理観って、物理法則と違って、普遍的で絶対に揺るがないものじゃあなくて、昔はそっちだったけど、今はこっち、みたいに変化する。場所によっても違う。だから自分の立ち位置が絶対って思うのはやっぱり狭いかもしれんと思ってきた。
これもピザみたいに、黙るか去るか選べ、がいいかな。当事者同士なら。

そこからさらに。例えば、倫理観がぶつかる二者と、その近くで巻き込まれてる、中立の立場にいる他の誰かがいて、その中立マンが己の主張とは無関係に困らされてる場合だとさらに難しくなる。

独裁者にいじめられてる人々を助けるために、よその国だけど独裁者エリア爆撃するわ、は狭さか広さか。
いじめられてる人たちは辛くて黙るのも去るのもしんどい、だから助けが必要で、それは人間性に基づいた普遍的な善行だからOK。なのかな。どうだろうな。国同士がやってることには手はおろか口も挟めないけど、学校とか会社とか、小さい集まりの中でもこういうのはあるよね。それは狭さか広さか。