『友達』に、落ち着きの良い据えどころができた。

「友達」という言葉を口に出すことが、あまり多くない。
友達について話をする機会が無いのも理由の一つ。
でもそれよりやや比率の高い理由が、「友達」という言葉の使い方に少し気を遣わなきゃいけない気がするから。

この言葉は、
あまりよろしくない文脈でもしばしば使われがちだと思うんだ。

「ただの友達だから!」はただの友達じゃあないし、
「俺たち友達じゃん?」で一方的な要求を突きつけられるし、
「友達少なそう」みたいな人格攻撃にも使われる。
自分の利益や自己弁護とか、他者への攻撃の道具のように。
イメージの良い言葉だから。そのイメージの良さを身勝手に利用するように感じて余計に引っかかるのかしら。

「この間友達と出かけてさ、」っていう、
単なる近況報告に使われる場合ですら、
その時点で話してる相手とは一線引いた、ちょっとクローズな話し方だから。
いちいちその人の属性とか、自分との関係とか、詳しく説明しなくて良い便利さがあるのはわかる。

「友達と出かけてさ」の話のウェイトが、出かけた場所の方にあるときは、「友達」側の情報は省略してテンポ良く話を進めた方が聞き手に優しいしさ。
でもその便利さにかまけて「友達」と呼ぶ誰かに関する話の中に、聞き手をずっと座らせておかずに。
「学生時代の先輩で、いつもどこでもベースを担いでて。半笑いでゆっくり歩く人でさ。」みたいに話の登場人物に輪郭を与えていきながら話の中を連れ回す方が、もっと聞き手に優しいと思う。

という感じで「友達」という言葉はちょっと扱いに注意が必要だと思ってる。

言葉の使い方への注意から、じゃあ友達とはなんなのか、誰なのか、という定義っぽいのにも慎重になっていて。
でもこれは、一緒にしなくて大丈夫なんだと思うに至った。

「彼は友達なのか?では、彼女はどうだろう?」みたいな問いは、答えを求められることが無いから、勝手に定義して頭の中にしまっておけばいいんだ、って。

「俺たちって友達なのか?」って詰め寄られること、日常生活で無いじゃない。
せいぜい環境が変わったタイミングなんかで「友達はできたかい?」くらいで。

だから、自分なりの基準で友達だと思っていればOKでさ。
相手がどう思っているかは関係無く、その人が困っていたら手を貸すつもりのある相手、人間以外も含めて、それを『友達』と呼べば良い。くらいの。

ということなら。

これは自分の中での考えの据えどころなので、人に話す必要はなく、増やしたり減らしたりも気の向くままに自由に決めてよろしいこととなる。

「そちらの事情は心得難くも、助太刀致し候。」って、似たように自分の意思で手を貸してくれるナイスガイズがいたら、その好意はありがたく受け取って、こちらの内側で彼らを『友達』として留めてたら、それだけで収まりが良いところに収まる。

「友達だろ?頼ってくれよ。」みたいな詰め寄り方も、これは良い方の使い方だとは思うけど、たまに滑って「友達だろ?」って自分のために使いかねないから。

むやみに取り出して振りかざすものではなく、内側に据えておく扱いが、ちょうど良い、っていう。