割れ窓理論は信用に値する。

最近気付いたことがある。

きっかけは、長年放置され続けてて歪に巨大化した木々をなんとかしようと思い立ったこと。
日当たりをよくするため、あとなんか人の手が行き届いていない雰囲気が、ゴミのポイ捨てを許容しているような気がしていて。
それもなんとかできるんじゃないか試してみたくなったから。

ここ2ヶ月くらい来る日も来る日も木を切り続けてきた。
ノコギリをひき続けて、ナタをふるい続けて、手が厚くなった。

習慣が手の形を変えるっていうことを再認識したのがまず一つ。
あと、ゴミのポイ捨ては無くなったみたいだ。割れ窓理論は信用に値する。

あと、道端の植え込みとか、街路樹、ほぼ全てが明確な意図で綺麗に整えられてることに今更気付いた。
いや、植え込みが刈られて綺麗に綺麗になってたり、除草作業の横を通り過ぎる経験は確かに覚えがある。
これまで幾度となく。

あるんだけど、意識に登らなかった。
一緒に生えている木や草との兼ね合いで幹の高さを揃えたり、側の建物とのバランスで枝を取り除いてあったりと、それぞれその形に目的とか意図があるっていうことに、実際自分でやってみたらなんかちょっとずつ気付き始めたっていうお話。
思えば当然なんだけど、なんか、新鮮だった。
道に生える木と、敷地内に生える木との違いもあるよなって。

公園の「自然」も、かなりの労力でメンテナンスしていく必要がある「自然」で、今まで意識に登らなかったのがちょっと恥ずかしいと思ったんだけど、その後すぐに、意識に登らないくらい自然に仕上げるプロの業がすごいんだ!って思い直した。
まず最初に「うわぁ、綺麗。」っていうのを届ける仕事。
恥じ入るよりも敬意が勝る良い仕事に囲まれて生活しておりますワタクシ。っていうお話。