等価交換の「等価」は、いつ、誰によって決められ誰と交換するのか。

何かを得たければ、それ相応の対価を払わなければならない。

という、等価交換のお話。

あれもこれも欲しいというわけにはいかんのだよ、という話の流れで、まま使われる。

痩せたければ運動しろ、とか。
難関校受かりたければ勉強しろ、とか。

こういう時の価値は誰によって定められるのか。

物やサービスの値段は市場の需要と供給のバランス、すなわち神の見えざる手によって決まります的なお話をふと思い出した。

缶ビール一本とかならわかりやすいんだけど。

「痩せたい」
とか
「東大に受かりたい」

みたいな場合はどうだ?

「運動する」

「1日10時間の勉強を3年間続ける」

とか、考え得る何かによって求める結果を手元に寄せようと頑張る。

もしかしたら十分かもしれないけど足りない場合も大いにある。
硬貨数枚で交換が完了する缶ビールの場合と違って、
持って生まれた容姿とか、持って生まれた記憶力とか、他にもいろんな要因によって、必要な対価が変わる。
「人による」っていう話になる。

この取引は、取引完了まで対価が明らかにならず、取引完了までそれと思しき対価を払い続ける必要がある。

取引の相手は、存在するのか?
しなそうだな。

さらに。
もう十分払ったよ、これ以上は無理だよ、ってなっても既に支払った分は返ってこない。

お金だったり、時間だったり、それに付随する物品や自分の置かれた環境とか、信条なんかも対価になるかしらん。

東大の例で言ったら、高校3年間を全てガリ勉に捧げた上で試験に合格できなかったとしても、高校生活は戻ってこない。

実際には東大合格のために支払ったと思ってる勉強時間は、
時間は問題を解くための知識とかテクニックと交換されたわけだから。

さらに言うと「勉強時間」には教科書にマーカーを綺麗に引く技術とか、
参考書の最初の方に手を付けては放り投げて新しい参考書を物色する選定眼に交換されてたりもする。

何を支払って何を得たのか。

支払ったと思ってるものは本当に想定したものか。

得たいものはひとつなのか、分解したら違うものになったりしないか。

みたいなところを見落として費やした色々。

これによって、既に支払った色々が虚無に吸い込まれて消滅するっていうわけでもないようなことが起こる。

「東大に受かりたい」の取引は成立せずに支払いっぱなしになってた対価が、
別の何かを手にしたいを思った時に、思ってたよりずっと簡単にクリアしたりということが、あるんじゃないかっていう。

あとは。
「これが欲しい。そのためにあれを手放す。」っていう明確な意思がなくても
この交換は常に起こっているっていう。

怪我とか病気で意図せず生活から失った習慣が対価となって、
新しいコミュニティとの接点が生まれて、そこで新しい価値観が自分の中に入ってくるような。

自分の中に出入りする物事を静かに眺める時間。

「あ、あれが出て行ったからか。」って納得するような瞬間がハイライトの。
雨の強い日にうってつけじゃあないか。